inahoto's blog

頭の中を綴るブログ。本とともに。

〈silent〉○○可哀想って思う方が可哀想

 

「耳聞こえないからこうだって、決めつけた考え方しかできない方が可哀想」

 

主人公の紬ちゃんが同僚に言い放った言葉。

いつかこの言葉を言ってしまうんじゃないかと思っていて、1回目の言いそうなタイミングでは言わずに2回目で言う。そのあとその同僚に対して言い過ぎたとか謝るんじゃなくて、べつの人に対してこの発言に少し触れるように、そして自分にも言い聞かすように、

 

「人それぞれ違う考え方があって違う生き方をしてきたんだから、分かり合えない事は絶対にある。他人の事を可哀想に思ったり間違ってるって否定したくもなる。それでも一緒にいたいと思う人と一緒にいるために言葉があるんだと思う」

 

と話す。この時間の経過がやけにリアルで大好きなところ。可哀想だと言ってしまったことに後悔している/していないとかじゃなくて同期の発言を聞いた時からずっと紬ちゃんは考えていて、誰かにちゃんと言葉にできるまでに悩み抜いたんだなと。



「~可哀想としか思えないあなたの方が可哀想」

 

可哀想って上から目線に聞こえることが多いからこそ言われるとつい「こんな考え方しかできないなんて可哀想!」って思って自分を慰めたり、言った人より自分が上にいるんだと思いたくなる。可哀想としか思えないのは”無知”だからだとか。でも相手を可哀想だと上の位置から言い放つ構造は相手も自分も同じであるし、言われたときの感情がわかるからこそそれを当の自分が相手にさせている、それしか言い返す術がないという事実がしんどい。

このシーンの場合は紬ちゃん自身が可哀想だと言われたわけじゃないけれど、なんかそんな気持ちになったんじゃないかなとか勝手に自分なりの考察をしている。

登場人物の想いや作り手の意図について視聴者全員が同じ理解を強要されていないから、このシーンの考察も見る人によって全く変わりそう。

現実世界でも誰かの放った言葉や見せる態度は受け取る相手によって印象が異なる。誰も頭の中すべてを外に出すわけなんてないのだから、態度や言葉、状況、それまでの関係性なんかで”考察”するしかない。放たれた言葉自体も、まるごと本心むき出しなものもあれば、ほんのちょっと思っていたことがなにかのタイミングで表出したものだったりもする。

だれかと1話から一時停止しながら各々の考察を語らう会がしたくなる。




このブログ、テーマに対して関連する本紹介していくやり方にしようと思っていたのに何も思い浮かぶものがなかったから今日読んだ本

 

喜多川泰『手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~』

 

柿の木と排除アート

どこかの国で誰でも好きなだけ実をとっていい柿の木が植えてあるらしい。多分"共有冷蔵庫"的な考え方から来てるんだろうなと思うのだけれど、ホームレスの方が食べられるようにという思いから植えられたと聞く。「年中柿の実が成るわけじゃないからホームレスのためなら別の施策を考えた方がいい」という方と、「お腹を満たすというよりそういうコミュニティ的活動が都市にあるということが大事」という二人の意見を聞きながら、私は表題のもう1つのワード、排除アートを思い出してしまった。

 

排除アートとは公共空間において、ある特定の機能を持たせない作品のことだ。ベンチの真ん中に不自然に仕切りや肘置きをつけてホームレスが寝られないようにする、とか。

NHKスペシャルだったかドキュメント〜だったかで見てからというもの、街を歩いているとその多さに唖然とする。ショッピングセンターのソファーに段差をつけていたりそれが排除アートに該当するかは定かではないが。

自分が排除アートに強くショックを受けたのは、「特定の人を排除することを"目的"としている」ところだ。トイレを男と女で分けることについてその無自覚さは同じでも、特定の人を故意に排除していること、そして貼り紙のように特定の人以外も分かる形ではなく、その人以外は気づかないやり方で場所を奪うことがなんだか苦しかった。(で、これを思い出すから、活性化し始めた地域で「この辺りは昔はホームレスばっかりで…………でももう今はいないんです!」というお話を聞くと、なんだか微妙な顔をしてしまうのである。)治安について反論がなされそうだが私は別に擁護しようと言っているわけではないのと今回の話の筋から外れるので一旦脇においておきたい。

 

柿の木も、排除アートも、たぶん誰かと話をすれば「ホームレスの人がどう思ってるのかが大事」という論がでてきそうだな、と思う。でも主語となる人が解を持っているだろうという姿勢で望むと危険でもある。

というのも、この話とまったく別の枠組みにおいてマイノリティとされる方(その人個人の発言がそのマイノリティ全体の意見と揣摩臆測されないように敢えて伏せる)が、「〜してあげよう」みたいなその考え方自体が上から目線だし、「〇〇はどう思ってるか」なんて個人によって違うし個々人の中にも相反する複雑な思いがあるというお話をしていてまさにそうだなぁと。"誰も確固たる解は持っていない"のだ。

 

だからこそ共生、難しい!となるし、昔なかった価値観が新たにできたり、ぼやっとしていたものに名前がつけられたり、"違い"の多様化が目に見えてわかるようになってくると増して共生など夢物語な気がしてくる。

 

オードリー・タンさんの本で、傾聴し構造を把握して、解決策を考えると共生は可能だし、デジタルはそれを加速できるというようなことを書いていて、こんなに深ぼれば深ぼるほどわからなくなるテーマが解決できるのかと読んでも読んでも疑ってみてしまうのだが、何にしても、

知ってすぐ策を思いつく, 深ぼるとその策が浅はかだと気づく, 混乱, 出口が見つかる.

の順序であることが多い。もっと向き合わねば。もしかしたら先述した"誰も確固たる解は持っていない"が案外出口のヒントなのかもしれない。

 

このテーマについてまだまだ自分の考えが極まってないために複数の論点を纏めきれていないし反論の余地がたくさんだがこのあたりで。

 

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関連

・オードリー・タン『天才IT大臣オードリー・タンが初めて明かす 問題解決の4ステップと15キーワード』

・『世界思想49号 民主主義』

https://post.tv-asahi.co.jp/post-133388/

 

年の瀬、ふりかえり

自分が今年読んだ本たちは自分の今年の思考のあわられだな〜とつくづく思う。ある時から小説が読めなくなった。忙しいからだけではなくて、情景描写や心情描写が目で追えなくなった。この物語を読みたいと思っても、粗筋と結末を知ればそれでいいとさえ思うようになった。文体のリズムや言葉のチョイスに作者の思いが詰まっているのに、である。

この1年のうち前半は自己啓発やビジネス本と類されるものばかりで、その時までの自分の価値観と、一般的に良いとされる思考法の合致に満足するために読んでいただろうし、そのおかげでそうした物事の捉え方が増強された。マニピュしたりされたり雁字搦めの自分は昔の自分にはないスキルと自信と反対に、失ったものに思いを馳せながらもそれを正当化するしか無かった。

 

「忙しいを理由にやらないことはやらなくてもいいこと」
「悩んで出した答えは正解」
って言葉大好きで物事を取捨選択する際の道標になってくれていたけれど、本当に忙しくてできない→「時間は作るもの」なのに?→作れない→やりたくないことだから考えない、の思考ループで辛かったし、別のルートを歩んでいた場合への想像力を意図的に止める要因になっていた気がする。

 

たくさん行動して経験して人に出会ってその思考が解けたとき涙が出るほど嬉しかった。ロジカルシンキングに染まって、目的と意味のあることにしか興味がなくなって、会話の枝葉を話せなくなって、時間とお金に縛られて。目的先決の思考は最短ルートしか興味を持たせなくする。枠の中で考えうる在り来りな解しか導き出せない。目標が達成されればまた別の目標を設定し、生産性が上がれば余った時間でまた別の仕事をする。遊びや余白の時間はそのあとと思いつつ一生来ない。そんな考えも聞いたことはあったのに「その言葉が"実感レベル"として"響く"」、「2,3日それについて"逡巡"する」までに至るにはなかなか難しい。

 

オリバー・バークマンの『限りある時間の使い方』に、キャリーケースの中に効率よくたくさんのモノを入れようとする方法を人生の時間の使い方にあてはめるなというような言葉があった。大学4年間をいかに濃くするか、成長するか(!)に焦点を当てていた自分にぐっさり当てはまった。もう1個バックを用意しても良いのである。もちろんバックを2個も3個もは持たないようにしたいが。


ただ、今までの思考法を全否定していては本末転倒である。ちゃんとバランスを保ちながら、吸収しながら、自然体で生きれるようになりたい。今年は目の前のことにもちゃんと悩んだけれど自分のバイアスとかコミュニュケーションについて考えることが多かった。頭の中にとめどなく言葉が溢れてきて、過去・現在・未来の自分と対話を続けてきた気がする。来年は何に悩むかな〜なんてわくわくしながら年末を迎える。

 

 

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影響を受けた本たち

オリバー・バークマン『限りある時間の使い方』

木村尚義『ずるい考え方 ゼロから始めるラテラルシンキング入門』

西村博之『1%の努力』

デイル・ドーテン『仕事は楽しいかね?