inahoto's blog

頭の中を綴るブログ。本とともに。

柿の木と排除アート

どこかの国で誰でも好きなだけ実をとっていい柿の木が植えてあるらしい。多分"共有冷蔵庫"的な考え方から来てるんだろうなと思うのだけれど、ホームレスの方が食べられるようにという思いから植えられたと聞く。「年中柿の実が成るわけじゃないからホームレスのためなら別の施策を考えた方がいい」という方と、「お腹を満たすというよりそういうコミュニティ的活動が都市にあるということが大事」という二人の意見を聞きながら、私は表題のもう1つのワード、排除アートを思い出してしまった。

 

排除アートとは公共空間において、ある特定の機能を持たせない作品のことだ。ベンチの真ん中に不自然に仕切りや肘置きをつけてホームレスが寝られないようにする、とか。

NHKスペシャルだったかドキュメント〜だったかで見てからというもの、街を歩いているとその多さに唖然とする。ショッピングセンターのソファーに段差をつけていたりそれが排除アートに該当するかは定かではないが。

自分が排除アートに強くショックを受けたのは、「特定の人を排除することを"目的"としている」ところだ。トイレを男と女で分けることについてその無自覚さは同じでも、特定の人を故意に排除していること、そして貼り紙のように特定の人以外も分かる形ではなく、その人以外は気づかないやり方で場所を奪うことがなんだか苦しかった。(で、これを思い出すから、活性化し始めた地域で「この辺りは昔はホームレスばっかりで…………でももう今はいないんです!」というお話を聞くと、なんだか微妙な顔をしてしまうのである。)治安について反論がなされそうだが私は別に擁護しようと言っているわけではないのと今回の話の筋から外れるので一旦脇においておきたい。

 

柿の木も、排除アートも、たぶん誰かと話をすれば「ホームレスの人がどう思ってるのかが大事」という論がでてきそうだな、と思う。でも主語となる人が解を持っているだろうという姿勢で望むと危険でもある。

というのも、この話とまったく別の枠組みにおいてマイノリティとされる方(その人個人の発言がそのマイノリティ全体の意見と揣摩臆測されないように敢えて伏せる)が、「〜してあげよう」みたいなその考え方自体が上から目線だし、「〇〇はどう思ってるか」なんて個人によって違うし個々人の中にも相反する複雑な思いがあるというお話をしていてまさにそうだなぁと。"誰も確固たる解は持っていない"のだ。

 

だからこそ共生、難しい!となるし、昔なかった価値観が新たにできたり、ぼやっとしていたものに名前がつけられたり、"違い"の多様化が目に見えてわかるようになってくると増して共生など夢物語な気がしてくる。

 

オードリー・タンさんの本で、傾聴し構造を把握して、解決策を考えると共生は可能だし、デジタルはそれを加速できるというようなことを書いていて、こんなに深ぼれば深ぼるほどわからなくなるテーマが解決できるのかと読んでも読んでも疑ってみてしまうのだが、何にしても、

知ってすぐ策を思いつく, 深ぼるとその策が浅はかだと気づく, 混乱, 出口が見つかる.

の順序であることが多い。もっと向き合わねば。もしかしたら先述した"誰も確固たる解は持っていない"が案外出口のヒントなのかもしれない。

 

このテーマについてまだまだ自分の考えが極まってないために複数の論点を纏めきれていないし反論の余地がたくさんだがこのあたりで。

 

--------

関連

・オードリー・タン『天才IT大臣オードリー・タンが初めて明かす 問題解決の4ステップと15キーワード』

・『世界思想49号 民主主義』

https://post.tv-asahi.co.jp/post-133388/